下の写真は、平成16年6月に撮ったミ―コの姿である。拾ってきて病院へ連れて行ったのが、3月20日であった。そのまま入院し、退院したのが5月13日である。その間、家内は週一回、見舞いに行っていた。
拾った時期から推定すると、15年の9月位に生まれたのではないか、と思われる。従って、この写真の時は人の年齢からすると12・13歳位に当たるのではないか。
この、プラスティックのパラボラアンテナみたいな、ものは、ミ―コが包帯をなめたり、咬んだりして外そうとするのを、防ぐために、医者が付けさせたものである。見ているとこれでは、毛づくろいも出来ず、文字通り手も足もでない。これでは可愛そうなので、包帯はともかく、1日位で直ぐ外してやった。
野良猫の世話をしている家内の友人は、自分の家でも猫を飼っていて、猫のトイレについて、いろいろと知恵を授けてくれた。
自分の飼い猫のトイレの砂を少し持ってきてくれた。それをあたらしい猫砂(使っている砂は、紙砂と言って、そのまま水洗に流せるものであった)に混ぜた。そのせいか、新しく買ってきた円形のトイレをちゃんと使いはじめていた。
感心したのは、初めてミ―コがトイレを使ってから、糞尿のそそうや、失敗をしていないことである。どの猫も本質的にそう云う資質を持っているのかどうか、分からないが、この事に関して、手が掛からないのは有難いことであった。
それまで、永いこと犬や猫が家庭内に居たことが無い。一匹の怪我猫が舞い込んだことによって、我が家は、特に私はどのような影響を受けただろうか。
先ず、鳴き声がうるさいか、どうか。子猫であるせいか、鳴き声は小さく、大きく啼く事は無かった。時にニャーーーーとやや長く伸ばすことがあったが、ゆるやかな節がついていて、唄の様にも聞こえた。これはひょっとすると、音楽に合わせて唄うかもしれない、と思った。二胡の曲の相性が良いのではないかと、勝手に決めて、早速求めた。なぜか、わくわくしながら、聞かせてみたが、まったく音楽に無関心であった。何の反応も見せなかった。くやしいので、何度か試みてみたが、徒労に、終わった。それ以来、二胡のCDは使っていない。
現在、ミ―コの人間対比年齢は、26・7歳になっていて、我々にはかなり慣れてきているはずである。しかし、猫の方からじゃれてくることは無かった。少なくとも私にはそうである。家内には問いかけるように啼くこともあり、時として、足元にまつわることはあったが、それ以上の事は無かった。特に抱かれることは嫌がり、逃げ出すのを押さえようとすると爪を立てたりする。そうした反応を見ていると、生まれて間もない、野良の時に、よほどひどい目に合ったせいだと思う。哀れさがこみ上げてくる。
私は気が向いた時に、ミ―コの背中や、頭を撫でてやることがある。初めは私が手を出すと、一瞬ではあるが、ビクッと反応した。それでも逃げ出すことはしなかった。最近では、警戒心は解き、おとなしく撫でられている。目を細めて気持ちよさそうにしている表情は、なかなか可愛いものである。
こちらもそう永いこと撫でているわけのも行かないので、適当に止める。猫の方も、大人しく撫でられているわけではない。突然、足を上げて、毛づくろいを始めたり、起き上がって伸びをして、大あくびをしたりする。多分、犬の様に飼い主に気を使うことはなさそうだ。
私も身勝手だが、ミ―コの方も勝手気ままである。お互いに個人主義に徹していて、返って付き合い易い。可愛がりたい時に可愛がり、可愛がられたい時に可愛がられる。このつき合いで、ミ―コと私は仲良く、平穏である。ミ―コのお陰で、一日のうち、何度かやさしい気持ちになれるのも、私の精神衛生上、良い効果を齎していると思う。
もう少し若い時に、猫を飼い、可愛がり、観察していたら、女性に関する付き合いかた、(扱いかた、失礼)も洗練されていたのではないかと、考える今日この頃である。
つづく。
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