コラム:2020年10月4日85歳の誕生日に2020.10.07 11:312020年10月4日、戸籍上の誕生日1日前。午前7時ごろに起床。床の上で腹筋運動をする。其の後、下肢のふくらはぎのマッサージ。足の指の屈筋運動。股関節の拡張運動、背筋の強化。以上を終了して、居間のテーブルへ。まず、血圧を測る。其の後、目薬を2種類さす。無添加野菜ジュースをコップ一杯。其の後コップ半分の水を飲んで終わり。朝の体操に入る。猫が見ている。一通り終わるのに約20分。日曜日なのでごみ捨ては無い。お水とごはん、線香をあげる。これが通常の毎朝の行事である。朝ごはん、みそ汁、納豆、残り物の魚、漬物(今日はメンマの瓶詰)デザートはヨーグルトにバナナを切って混ぜる。キウィを食べる。またはブドウ。朝食が終わると少しTVを見て、洗面所へ。それから新聞を読む。読み終わると買い物へ。今日は誕生日祝いをする予定なので、角上という店に行く。その前に日常の買い物をするフードガーデンで家内が買い物をする。其の足(車)で角上へ。着いてみると、駐車場は一杯で、第三駐車場と言うのが一台空いていたので其処へ停める。店の中もごった返していた。考えてみれば今日は日曜日なのだ。私は魚売り場へ行った。普通のスーパーマーケットでは見られない捌く前の魚が一匹の姿のまま、売られていた。さしみ、煮つけ、塩焼きなどと値札に記載されていた。イサキ、タイ、メバル、キンメ、ブリ、カレイ、のどぐろなどの魚の姿が目に付いた。家内を呼んでイサキよりキンメを選び、刺身用におろしてもらった。しばらくは待つことになった。団地に着いて和男さんの家に寄った。茗荷がまだとれるというので、インスタントコーヒーを一つ持って訪問した。彼が出てきたが、少し顔色が白っぽかった。庭に回って茗荷を覗いてみると、少し首を出している茗荷が見えた。採るには少々小さいのではないか、と思ったが実際に掘ってみると思ったよりは大きかった。四つほど掘り起こした。薬味としては十分な量である。茗荷の木を日陰に移す話があるので、和男さんにあのあたりかな、と指さすとかなりの穴を掘らなければならないので、自分は体の事情で無理だ、言った。私は自分でやるつもりだったので、俺は穴を掘るのは結構得意なのだ、と言って別れてきた。 私の誕生日が実際の所、何時だったのか、臍の緒が入った小さな木箱に記載されているので、それを探した。2か所ばかり当たったあと、本棚の引き出しにあるのを見つけた。それによると昭和十年9月28日となっていた。しかし、その下に二十二という文字があり、その上に二十八と上書き直されたように見える。しかし、戸籍上の5日は本当の誕生日ではないので、5日、月曜日は禁酒の日なので、4日の今日にするわけだが、どのみち5日より前が正しいので、4日の今日に祝ってもかまなないという言い訳に臍の緒を探したのである。さて、この85歳の誕生日の身体の状況は、身体検査の上では、特に異常はなく、中性脂肪がやや基準値を超えている程度で、主治医も特に問題にしていなかった。自覚症状としては、やはり体力、体の柔軟性は明らかに劣化していると感じる。3日前、宮原駅前の銀行まで往復を歩いた。合計4キロほどである。所要時間は50分。2キロを概ね25分で歩いていたから、まあこんなものかというところである。自分としてはせっせと歩いたつもりであった。歩き始めて7分ごろになると、息と心臓のあたりが少し苦しくなった。これは15分かかる小野整形外科に歩いて行くときも感じた。足そのものは痛くも違和感も無い、たぶん足に送る血液の負担が心臓や肺に掛かってくるのではないかと考えた。少し歩き慣れなければいけないのかもしれない。薬は内科で、血圧、胃酸を抑える薬、頻尿の薬を飲んでいる。また目薬を2種類。その他、サプリメント、サントリーのニンニク黒酢、セサミンEX、を常用している。効果があるのかどうか、あまりよく分からない。頭の方はどうか。日常生活に支障をきたすような気配はあまり感じない。脳トレをやっているが、概ね30~40代の評価を得ている。運転免許の認知症テストでは94点を取った。古い記憶をよく覚えている。昨日3日のピンポンの時に、澤井さんがふと、「女性の評判が良いんだね」と私の顔を見て言った。その前の話は無く、ふっとそう言ったのである。澤井さんはあまり無駄話をする人ではない。ある女たちのグループか個人の会話の中で私の話が出たのだろう、と思った。誰がとか、どこでとか、私は聞かなかった。団地の女性達だから、相応の年配のひとだろうと思われる。それにしても褒めてくれる人がいるのは、この年になってもうれしい。誕生日前の贈り物としては上等である。たぶんOK会での世話役の評価ではないかと思われる。新型コロナの所為で集会所での様々な集まりが中止になった。OK会は、おしゃべり、食事会、カラオケ、輪投げなどが主で、すべて感染の危険度の高い内容である。残念だが致し方がない。 気になるのは、毎年お願いしているシャンソンと愛唱歌を楽しむ会、の人たちである。様々な催しや、会合が中止される現状で、彼女らのボランティア活動はどんな状況なのだろうか。来年の第二金曜日は、本来ならばおねがいして、集会所に40人ほどの皆さんが集まるはずである。もう少し経ったら、連絡して状況を知らせてもらいたいとかんがえている。どのみち、我々の会は中止になると思われるが。 晩酌はキンメの刺身とアラ煮、取り立ての茗荷を使った卵とじ、などで日本酒を飲み始める。其の後は焼酎のお湯割り、仕上げはウオッカオンザロックのレモン添え。最後のウオッカはTVを見ながらゆっくり飲む。イギリス製のミステリィイを見ているわけだったが、途中はウトウトしていたので、目を覚ました時には終わりの方で、内容はよく分からなかった。こうして誕生日の一日は終わった。 読み返してみると、大事なことが二つあった。一つは私が最近考えていることである。体のことは書いたが、頭の中身についての記述がない。 小説「聖書」旧約と新訳の2冊を読了した。小説の中身と聖書そのものとがどう違うのか、読み比べてみたいと考えた。 原罪については、マリアの精霊によるキリスト懐妊の話で、人間の出生そのものが原罪に発している、と考えていたが、最近は、人そのものの中に悪を抱えて生きる、そのことを指しているのではないか。つまり生まれながらにして、罪を抱えた身をもって人が生きることを始める。 旧約聖書に度々描かれている人々の愚かさ。それに対する神の怒り。旧約聖書はこの物語の連続である。だから戒めが必要であり、人は日々懺悔しなければならない。 今の日本、世界を見ても神がただ傍観しているとは思えない。人の愚かさ、弱さは紀元前と変わっていない。 人の心の中には神の現身も存在する。その陰に悪魔が隠れている。どちらが強く具現するのか。人一人の力でそれが可能なのか。それとももっと大きな力を借りなければ、善は引き出されないのだろうか。 一人が持っている悪が、一人の時は案外鳴りを潜めているが、これが複数になり、集団になり、団体になるとなぜか、悪意が固まって量を増やしてくる。そうするともう、一人の力では制御が聞かなくなる。争いは人間誕生から始まり、未だに世界の中で戦争が消滅していない。愚かさの繰り返し。 さて、もう一つのことは、家で飼っている猫のことである。名前はミー、と言う。雌猫である。もともと野良猫だったので拾ってきたときに、生まれてどのくらいの歳月がたっているのか、曖昧である。家に来てから5年ほど経っているので、5歳ぐらいか。人の年齢で言うと現在37・8才だろうか。 朝まだ寝床に居る時、布団のわきに伏せていることが多い。私が朝早く目を覚ました時は、背中を撫でてやる。はじめは目を見開いているが、次第に目を細め、極めて平和な表情になる。それを眺めていると、こちらまで穏やかなやさしい気分になる。これは明らかに猫効果である。腕が疲れると尻尾を撫でる。これは床に対して高さが無いので、楽に手を動かせる。この尻尾が私を遊ばせてくれるのだ。私の手をからかうように、ぱたんぱたんと動かし、じゃれてくれる。しっぽのやわらかい毛が肌に心地よくすべる。こうしているうちに私は再び軽い眠りにおちいる。これは至福の時である。 猫の胸やお腹を触っても鼓動が感じられない。猫は心臓の動きが小さいのだろうか。しかし、手をじっと猫の体に当て、人間とは別の種のいきものが、人の8倍ほどの速さで、成長し老いに向かっていると考えると、猫と言ういきものの個性と、あわれさが伝わってくる。ミーは泣き声が小さく、其れでもよく耳に届いた。大きな泣き声はほとんど発しない。妻とは会話ができるようで、微妙に引き延ばした泣き声を出して、何かを訴えているように聞こえる。小さい、ささやくような声は大変に好ましいものである。私はニャー語を話しているな、と言って私もニャーと言うが、それには全く答えない。拾ってきたときに右手から血が出ていた。近くの獣医に見せると、この手は切ってしまった方が良いのではないか、という話であった。それはやめてもらったが、それほど酷いけがで、神経はないのではないか、とも言われた。猫にも利き腕があるようで、どうやら右手がそうであるようであった。あるくと右ひじをつく音がした。足音が聞こえるのである。怪我猫、という名もつけた。その手をみていると哀れさが増してくる。Pity is akin to loveである。哀は愛に似たり。町田 辰夫大宮 今羽町団地 OK会大宮 今羽町団地 おしゃべり くつろぎの会(OK会)のホームページです。フォロー2020.10.21 04:24コラム:老蝶(縦書)2020.10.07 11:28おしゃべり・くつろぎの会(通称O・K会)の現状について0コメント1000 / 1000投稿
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