コラム:令和元年7月6日の朝日新聞の記事に感じ

令和元年7月6日の朝日新聞に、安楽死についての一文が掲載されていた。消極的な安楽死 と積極的な安楽死があるという。

消極的な安楽死は、医療的に見て全く回復の方法がない状態で、痛みを止め生命を維持するだけの場合に、延命だけの医療を行わないで死を待つ方法である。一方、本人の意思で生命を断つ選択することを、積極的な安楽死ということである。しかし、これは現在の日本では認められておらず、外国へ行ってその処置?を受けた人が実際にいたようだ。

この記事を読んで、私が感じたことを記録したい。

ただ、この記事とは直接関係ある話かどうかはわからないが、この記事から受けた刺激で考えが浮かんできたのは事実である。

私は、数多くの仕事や遊びや旅をしてきたが、どの瞬間にも居心地の不安定さを感じていた。どうもこの状況にいる自分は本来の自分ではない、という漠然としているが、かなり強い実感であった。この役は自分ではない。自分に合っていない。誰か知らない人が書いた脚本で 芝居をやっているのではないか。自分で、自分に合った脚本を書き、演じなければならない。

仕事では、失敗もあったが、世間的には十分に成功した経験もあった。恋愛も質的にも量的にも波瀾万丈の体験をするチャンスにも恵まれた。なぜか、旅に出る機会も多く、それを自分が望んではいなかった時も、さまざまな場所に飛んでいた。

現在、83歳と9か月の人生に至っているが、いまはどうなのだろう。 傍から見れば、職を外れた単なる老人である。あまり面白そうな老後をおくっているとはだれも思わないだろう。

しんとして、考えてみると、今こそ私らしい時間を過ごしている、と感じられる。浮き草のように不安定な心境ではなく、自分のこころのおもむくままに時間を楽しんでいるように感じる。老化して感受性が鈍くなった、ぼけの愉悦感とは思えない。

週、3回、1回2時間のピンポンで反射神経を訓練し、週 2 回のスポーツ吹き矢で呼吸を鍛錬している。そのほか、毎月1回のカラオケ会は3時間を6人が順番制で歌う。7曲ぐらいは歌うのではないか。

そして、世話人の一人として、「おしゃべり・くつろぎの会(通称O・K会)」という会を月2回、1回6時間、昼食時間を含む、を開催している。これは団地の集会所で行っている。 特別な行事はなく、それぞれ集まった人たちがお話や、手芸、折り紙、トランプ、花札、時には有志による麻雀などもある。将棋、囲碁、カラオケもある。

集まる人は一人暮らしの高齢者が多く、自然にそうなった。

以上は、私にとって、外部的な時間であるが、ひとりの時間もまた、結構多忙である。現在、同窓生と「百歳の会」を立ち上げようとしている。その準備で心理的に多忙である。何しろ発案者の関係で、会場の検討や内容の企画もしなければならない。

この企画も、実行に移れば外部的な時間となる。

そのほか、パソコンのメールで友人との交信がある。また、様々なプロバイダーが提供するサイトの閲覧やアンケートに応じることもある。時には、将棋のサイトで遊ぶこともある。

本来の内的な時間は、まず本を読む時間である。私にとって本は食事やおやつと同じで、なくてはならない、不可欠なものである。いま、なぜか福沢諭吉の「学問のすすめ」口語訳を 読んでいる。これは、恐るべき?教養書で、経済から、政治、道徳、生き方に至るまでの深 い思索で語りかけてくる内容である。明治時代にこのような将に和魂洋才の典型的な巨人が居て、実際に活動し、慶応義塾大学まで創設したとは、恐れ入った。

このような著書と並行して、トーマス・マン全集VIIIを読んでいる。この全集は一冊で厚さが表紙を入れて4.5センチあった。主に中短編が納められていて、トニオクレーゲルやベニ スに死す、なども収録されている。

医院に行って待たされているときには、ゲーテの「美しき魂の告白」などを読んでいる。これらの著書の刺激で、わが脳みそは戶惑い、忙しく考えさせられ、さまざまな感情がぐるぐると渦を巻くのである。

現実の世界や虚構の世界の刺激から、私の感情や思惟の世界は波打って、時には大きく、時には静かななぎ状態で包み込む。

私のこころの状態に外界の刺激もあり、それを感じ、分析し、推理するという作用もある。 最近では、いろいろな高齢者の身体的、精神的な老化の推移を観察し、分析し、予測するという、いささか趣味の悪いことも試みている。

つまり、上記のような日常的な行動と、私の思惟の世界をめぐる時間を過ごしていると、何ら経済的な活動をせず、最終的には、自分のこころの世界の資産をたのしむ、このような時間こそ、私が自分に合った、しっくりとした時間であり、それを日々体感している自分が一番それらしい、と感じている。従って浮き草のような浮遊感はない。

それならば、じっと家にこもって、好きな思索に耽っていれば良い、ということもあるだろ う。しかし、外界とのつながり、人との接触がなければ、こころへの刺激は無い。これは精神活動にとって、不可欠である。

今のところ、病がないが、何かの病気で臥せったとき、私はあまり失望をしないのではない かと、思っている。負け惜しみではなく、また、自分のなかに興味ある世界を見ることがで きると信じている。死に近づいて行く過程もそれなりに興味深い、自分でしか味わえない体 験ではないか。だから、死ぬまで面白い。死んでも面白いかもしれない?エッ


令和元年7月6日  午前11時30分  今のところ元気な町田 辰夫


大宮 今羽町団地 OK会

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