追悼 柳沢 厚夫さん
この人の葬儀が行われたのは、2019年1月18日(金)午後0時00分であった。場所は、日本キリスト教団大宮教会である。旧大宮市役所の近くであった。
車で行ってみると、辺りの景色は随分以前と異なっていた。駐車予定の埼玉県県税事務
はすでに見えず、新しい大宮区役所のビルが殆ど完成に近いすがたを見せていた。
教会は大宮駅からも近く、便利な場所にある。
受付で、柳沢 厚夫兄葬儀と書かれた小冊子を渡された。教会の内部は明るく、新しく感じられた。天井は高く、正面には木目が見える様な材質の十字架が飾られている。キリストの像はなく、木材で作られた十字架だけが目立った。
時間が来て、牧師の司会で葬儀は始まった。享年71歳。
前奏 主なる神、いま天の扉を開け給え
聖書 ヨハネによる福音書11章25~26節
讃美歌 493(いつくしみ深い)
聖書 詩篇23編
祈祷
讃美歌 385(花彩る春を)
説教 「羊飼いである主に導かれて」 牧師
祈祷
讃美歌 434 (主よみともに)
感話 大宮教会長老
頌栄 27(父・子・精霊の)
祝福
後奏 主なる神よ、我れを哀れみ給え
遺族挨拶
献花
出棺
以上の手順で、粛々と進行した。
一番印象に残ったのは、牧師が話した柳沢さんの略歴と近況であった。今羽町団地に転入して来て13年になるが、その間、葬儀に出席したのは3回で、いずれも団地内の知り合いで男性であった。今回の様に教会での葬儀は初めてである。その違いは建物内部や讃美歌や式の手順では無く、故人の情報の量と質に関する内容であった。
近くの葬儀場では、宗旨に合った坊さんを呼んでお経をあげるのを聴くのが主な内容である。お経の意味は殆ど分からない。ただ、故人が何歳で亡くなったと言うのは分かる。
しかし、それ以上の情報は坊さんからも、親族からも詳細は伝えられない。
一方、牧師の話で、柳沢さんの詳細がかなりはっきりとわかった。教会の活動には良く参加し、労を惜しまなかったようである。それは、大宮教会長老の感話の中でも語られていた。気楽に良く話をし、身体を動かすのが好きな彼は、教会仲間に愛されていたと思われる。
ここ3年近くは月2回の会、「おしゃべり・くつろぎの会(通称O・K会)」で良く会っていた。熱心に参加されていたので、話をする機会も多かった。しかし、彼の生い立ちや、学校やその後の生活について、殆ど知ることは無かった。私にとっては今回、牧師の話を聞いて、彼の全容が見えて来たと言える。
坊さんを呼んで行うセレモニーと、今回の教会の内容がどうも違うようだ、と言うのが実感である。
彼の住まいは、我々が定例的に集まっている団地の集会所の前の8号棟5階であった。将に、目と鼻の先で5階と言うのはエレベータの無い建物の最上階である。
実家は隣町の本郷町にあるようである。お兄さんと言う方が見えていた。人品の良い人で、白髪で立つことはできるようだが、車いすで来ていた。察する所、本郷町の旧家の出身で、それなりの家柄であるように思えた。
私は会の世話人3人のうちの一人で、10時前には行って集会所の鍵を開け、テーブルと椅子を揃える。柳沢さんは皆より少し早目に来て、「力仕事は任してください」等と、呟きながら、手伝ってくれた。
身長は私より高く、多分175cm位はあるのではないかと思われた。体型はどちらかと言うと、筋肉質タイプで、若いころ野球をやっていた、と言う話も聞いた。また教会仲間とジョギングもしていたらしい。全体的に男性的な外貌であった。良く女性の話や、キャバレーで遊んだ話をした。そんな時の彼は実に楽しそうで、私もこれらの話題は好ましい方なので、話が弾んだ。そして、「先輩、この様な会は本当に良い企画ですね」と語っていたのを良く覚えている。
「結婚は3回目で、いろいろありまして」と言う話は何度か聴いている。「俺が一回しかしていないのに、3回もするとは太い奴だ」これは私の対応である。そう云うといかにも照れたような笑いを見せた。大宮に「杯一」と言うキャバレーがありましたね、おばさんが沢山いました。私も行ったことがあるよと私。昭和46・7年ごろ大宮の繁華街には、数件のキャバレーがあり、かなり繁盛していて、よく遊びに行った。
柳沢さんは私より一回り若い。早稲田の法学部を卒業して、郵政省に就職した。当時としては、かなりなエリートコースではないかと思われる。しかし、躁鬱病になり、躁の時はかなり遊んだらしい。女性にももてたと思われる。
彼の性格は、器用に周囲の人と調和したり、集団の中で要領よく身を処するのに長けているとは考えられない。職場ではかなり苦労したのではないか。
3年ほど前、近くの料理店でO・K会の忘年会をやった。飲食の間にカラオケを楽しんだ。柳沢さんは歌が上手で、手持ちの歌の数も多く、良く舞台に立って歌った。私はあまり気にならなかったが、後で、マイクを独占している、と言う批判を言った人がいた。男性で、その人は、それから1年ほどで亡くなったが。
O・K会で有志の人達の寄付金で、比較的安価なカラオケのセットを購入した。追加の曲なども増やして徐々に充実してきている。会の途中からカラオケタイムになり、各自が思い思いの曲を歌っている。柳沢さんの様子を見ていたが、彼がマイクを独占するようなことは無かった。多少は心配したが、彼自身も気を付けているように感じられ、やや安心することができた。
彼が良く話題にするのは、前述の結婚3回の話と、警備会社の話であった。実際に警備会社に勤めていたらしかった。「警備はむしろ歳をとった人の方が信用できる」と社長が言っています。若いものは勤務態度も悪く、長続きしない。
この話も幾度ともなく聞かされた。葬儀には警備会社の制服を着た男性の姿もあった。
同じ話を何回もすると言うのは高齢者の常である。私は自分も含めてそう云う傾向があるので、同じ話でも寛大に聞くことを心がけている。べつに害のある話では無いので、
聞き流すのが礼儀ではないかと思っている。
しかし、彼の言動に認知症ぎみの症状が幾つか見られた。会ではお昼の食事の希望を取って、世話人が買いに行くことにしていた。いつものように代金を集金し、人数分を購入して帰って来た。目の前に腰かけている柳沢さんを見ると、近くのコンビニで買って来たらしいお弁当と缶チューハイを持っているのに気がついた。「柳沢さん、弁当は買ってきたよ」と言うと、手元をみて、無言であった。「それは、夜食べれば」と言うとうなずいた。
その他にも、他の参加者のカバンを自分のものと間違えて持って帰ったり、逆に自分の帽子などを良く忘れたりしていた。
柳沢さんの件で、1月2日の午後4時ごろ、市報のアナウンスがあった。前の日に出かけて行方不明になった、というアナウンスであった。聞いていると間違いなく彼の事であった。この情報からすると、一晩以上彼が見当たらなかったことになる。夜はどこで過ごしたのだろう。この寒気をどう避けたのだろうか。そのことが心配であった。
5日ほど経った頃、柳沢さんの自転車が所定の置き場にあった、と言う話を聞いた。彼が自転車で出かける姿を良く目にしたことがあるので、教会へも自転車で出かけたのだと想像できる。しかし、本人がまだ見つからないのに、自転車が先に何処かでみつかったのだろうか。この辺の所は分からなかった。
結果的には、11日後にさいたま市緑区で発見された。1日に聖書と讃美歌を持って教会に向かった様である。亡くなった時も、手には聖書と讃美歌があったと言う。
献花の時に、彼の顔を見たが、白いガーゼで覆われていて、あまりはっきりは見えなかったが、眉などは描かれていたように思え、彼自身の素顔とは全く似つかないように感じられた。
一応、司法解剖が行われた、と牧師の報告であった。しかし、事件性も自殺の気配も無かったと言う。
ごく最近まで目の前で話をしていた人物が、急に居なくなった。団地の住民の中でも最も頻繁に会う機会があり、お酒を飲んだり、食事をしたり、話をしたりした人が日常から姿を消してしまった。柳沢さんの葬儀以来、私のこころからこの喪失感は消えない。
合掌。
平成31年2月3日 15-201 町田 辰夫記
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